『福沢諭吉について』(21)
「学問のすすめ」より
第16編 <心事と働(はたらき)と相当すべきの論>
この編では、心事と、実際に行動することの一致、バランスについて述べています。
心事とは、思ったり、願ったり、怒ったり、不満を感じたりという、ごく当たり前の
心の動きのことです。
それに対して働きとは、日常的に、己れがなしている仕事、作業、業務のことです。
『人の働きには大小軽重の別あり。芝居も人の働なり。学問も人の働きなり。
人力車を挽くも、蒸気船を運用するも、鍬を執りて農業するも、筆を揮(ふるい)て
著述するも、等しく人の働なれども』とあり、続けて、役者が己れの職業を好まない
で学者になろうと思い、車挽きの仲間にならずに航海の術を学び、と、自己転身を図
る人間を称揚します。
職業に貴賎はないが、そうは言っても仕事には大小軽重の差があり、おれはもっと違
う世界で生きたい、働きたい、と思うのは良いことだ、それは志(こころざし)がな
さしめるもので、
『人の心事は高尚ならざるべからず、心事高尚ならざれば働きもまた高尚なるを得ざ
るなり』と言います。
高尚な心を持ち、心が高尚でなければ行動も高尚にはならない。
福沢自身が、貧しい下級武士の生まれで、当時の愚かな『世襲制』に苦しみ、その打
破を願っていました。そして福沢は努力の果てに、現在の地位を築いた。
だからこそ、己れの生まれ、身分に埋没しないで、志を高くもって、生きろと激励し
ているのです。こうした精神は、幕末から明治維新にかけて躍動した男たちに共通し
たものでした。
でなければ、革命とも言うべき維新の鴻業は成立しなかったでしょう。
しかし、福沢は心事とともに、実行動としての働きの大切さを訴えます。
つまり、思うことと、実際の行動の違いに言及します。
『人の著書を評せんと欲せば、自から筆を執て書を著わすべし。
学者を評せんと欲せば学者たるべし。
医者を評せんと欲せば医者たるべし。至大の事より至細の事に至るまで、他人の働に
くちばしを入れんと欲せば、試みに身をその働きの地位に置て、自ら省みざるべから
ず。或いは職業の全く相異なるものあらば、よくその働の難易軽重を計り、異類の仕
事にても、ただ働と働とをもって自他の比較を為さば、大なる謬(あやまり)なかる
べし』
つまり、世の中には色々な仕事があり、批判するのは簡単だが、それなら、自分でそ
れをやってみろ、そうすればその大変さがわかるだろう。
だから、自他の仕事の難易軽重を計って、評価することが大切だ、それができれば、
大きな過ちは犯さないだろう、と述べています。
他人の仕事をああだこうだと批判するのは簡単だが、ようく考えて、批評しろとの諫
言ですね。確かに、愚生なども、悪口、特に政治家の悪口は言いますが、じゃあ、あ
んたやってみろと言われたらお手上げですね。
ここは悩ましい所で、しかし一方で批評、批判は大切です。
特に社会的に高位とされているひとの所業については、よく目をこらして注視しなれ
ばならない。国の有り様がかかっているからです。
この16編は、多分、こういうことです。
福沢は社会批判を随分書く一方、自分も随分と批判されたでしょう。
ですから、それらを鑑みて、ちと内省的に、以上のような論を展開したのでは。
ぐっと卑近な例をあげれば、稀勢の里を『だらしない、ガッカリさせやがって』と指
弾するのは容易ですが、じゃあやってみろと言われたら絶句するしかないので、
ここは、
『仕事の難易軽重を計って、職種が違う場合は、自他の比較をして、判断すべし、
無闇矢鱈とひとを批判するな』と読むことにしましょう。
自戒の言葉と致します、ハイ。
……それにしても巨人軍……首位打者になったこともある生え抜き選手を放出するな
んて、首脳陣は何を考えているのか、ったく!