J・H のささやき VOL.140 『福沢諭吉について (20)』
「学問のすすめ」より
第16編 ① 手近く独立を守る事
『不羈独立の語は近来世間の話に聞く所なれども、世の中の話には随分間違いもある
ゆえ、銘々にてよくその趣意を弁えざるべからず』ではじまり、独立には二つあって、
一つは有形なり、一つは無形なりと説明します。
有形の独立は品物についての独立、無形の独立は精神の独立です。
『品物についての独立とは、人が銘々に身代を持ち、銘々に家業を勤めて、他人の世
話厄介にならぬ様、一身一家内の始末をすることにて、一口に申せば人に物をもらわ
ぬという義なり』
有形の独立とは、他人からモノをもらわないで、厄介にならないことだ、と明快です。
(イスラム圏では、ひとから施しを受けても、礼を言わないそうです。
当たり前なんですって。驚きですが、それは何故か、興味のあるかたは、ご自分で学
んでください)
では無形の精神の独立とは何か?
簡単に言うと、他人が持っているものを身分不相応になんでも欲しがり、奢侈に走る
心根を持たないことです。
そうでないと、結果として、
『身に残るものは奢侈の習慣のみ、憐れというも尚おろかならずや』
現代流にいうなら、物神崇拝に陥る、ということです。
『産を立るは一身の独立を求むるの基なりとて心身を労しながら、その家産を処置す
るの際に、かえって家産のために制せられて、独立の精神を失い尽くすとは、まさに
これを求むるの術をもってこれを失うものなり』
独立を守るために働いて金をかせぐのはよいが、その金を、他人の真似をすることに
よって蕩尽し、己れを苦しめることになり、その結果、精神の独立を失ってしまう。
実に愚かな所業ではないか!
『一杯、人、酒を飲み、三杯、酒、人を呑むと云う諺(ことわざ)あり。
今この諺を解けば、酒を飲むの慾を以って人の本心を制し、本心をして独立を得せ
しめ ずと云う義なり』
つまり、初めの一杯は己れの意思で飲んでいるが、三杯となると、人は酒に飲まれて、
己れを失い、独立心を失う、という例え話です。
本末転倒と言い換えても良い。
イギリスの経済学者に、ヴェブレンというひとがいました。
このひとは、資本主義の発達は『見せびらかし』によるものだと面白い意見を述べて
います。
もちろん、異端視されていますが。
『こんなもの、おまえ、持ってないだろう、どうだ、いいだろう』とひとに見せびら
かす。
で、消費が進み、それが資本主義の発達をもたらした、という見方です。
確かに、貴族、上流階級には、そうした傾向があったのではないか?
豪邸を建てる、きらびやかな貴金属を身に付ける、豪奢な馬車に乗る。
いや、庶民にも、そうした『癖』はあるのか? あるでしょうね。
現在でも、高級車や高級時計やブランド品を買い求めるひとにはそうした心根がある
と思われます。
日本では成金趣味と言いますね。
本来人が何かを求めるのは、それが欲しいからですが、それが欲しいからではなく、
それを他人に『見せびらかしたいから』求めるのは、倒錯です。
で、裕福な貴族ならまだしも、庶民階級が身の丈に合わない消費をするのはよろしく
ない。
『余輩あえて守銭奴の行状を称誉するにあらざれども、ただ銭を用いるの法を工夫し、
銭を制して銭に制せられず、豪も精神の独立を害することなからんを欲するのみ』
金を使わずに退蔵する守銭奴をあえて賞讃するわけではないが、金を貯めることも時
には必要だ、それは、金を持っていても金に使われず、コントロールができていて
独立心を失っていないことを意味するからだ。
それはけっこうなことで、皆さんそうなってくれと結んでいます。
さて、この論でゴーン氏の所業を見ると、どうなるか?
福沢は、驚き、呆れると思います。
なぜか?
大金を溜め込むのは、一見、堅実のようですが、それが自己目的化することは、逆に
金にコントロールされていることになるからです。
金は何かと交換され、あるいは投資されることによって、本来の目的である使用価値
の壇上にのぼる。
度を越した退蔵は、度を越した酩酊、つまり泥酔と同じですね。
死に金とはよく言ったもので、貨幣の不思議さがここにあります。
(銀行に大量に保管されている金、目的を失って眠っています。いや、死んでいる)
ゴーン氏は貨幣というブラックホール化に飲み込まれてしまったのか?
ブラックホールからの脱出は、無理だそうですが……