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Vol.82 石垣考 (2)

J・H のささやき VOL.82 『石垣考 (2)』

 

こんにちは、ジェームス・ホントです。 

石垣は、山野に転がっている自然石を積む『野石積み』と、大きな岩塊を割って利
用する『樵石積み』(こりいしづみ)の二つに大別できます。
樵は、木樵(きこり)の『こり』で、切る、刈ると同源の語です。
石工という職人には、石採工(いしとりこう)、石積工、石彫工の三種類がありま
す。

    『士分としてのアノウ』

石工が歴史に顔を出すことになるキッカケとなった、織田信長の安土城は完成後
三年にして焼亡しました。
今でも石垣の一部が残っていますが、大きな石を城山に引き上げるため、滝川、丹
羽、羽柴の三将が合力して一万人余りの人夫をかき集めました。
さて、穴太(アノウ)ですが、アノウという土地は近畿地方にはよくある地名で、
大和の穴穂(アナホ)から別れた地名と言われ、そこには早くから墓石や輪塔の製
作に巧みな石工が多くいて、石塔師と呼ばれていました。その石塔師と隣村の臼師
が、にわかに安土に召し出されて、石垣普請を請け負うようになりました。            
 
つまり、アノウの職人は、本来的に石垣造りの職人ではなく、彫石工、積石工だっ
たのですが、信長のご下命とあれば否も応もなく、イヤイヤながら、仕事に就くこ
とになりました。
ところが、そこに、石山の切り出しに来ていた瀬戸内海沿岸の職人がいて、瀬戸内
海沿岸には本格的な石垣師がたくさんいることがわかり、その連中を呼び寄せるこ
とになりました。つまり、アノウ衆(役)は、本物の石垣師を監督、つまり管理す
る側にまわったわけですが、その後、様々な曲折を経て、後世石垣造りを代表する
呼称になったわけです。
 
アノウは信長の許可を得て、『士分』に取り立てられ、石垣師という職人を統率、
管理する身分に上昇したわけですが、職人が『士分』になりあがるというのは破格
のことで、『されば、まこと果報極まる人たちと申さうず』と史書にはあります。 
現在、アノウという名称は、穴納、安濃、安能、阿野という苗字で各県に残ってい
ますが、派遣された職人が、その地域に居残った結果です。
また野のつく苗字、たとえば下野、水野、草野、野本などは、アノウ系の名前と考
えられています。

   『築城の名人・加藤清正』

加藤清正は、石垣取りの名人と言われ、大坂城、江戸城、名古屋城の構築に尽くし
ています。
加藤家の石積み方式を世に『肥後流』と言いました。
清正自身が『石工』を務めたわけではもちろんなく、配下に侍大将の飯田覚兵衛、
足軽大将に三宅角左衛門がいて、この二人が設計者でした。
秀吉の二度に渡る朝鮮出兵に際しては、清正は彼の地に二十八もの城を造っています。
 
清正の城造りはとてもあわただしい仕事であったと想像されますが、さっさと仕事を
こなしてゆくには、相当の熟練が必要とされるので、清正の配下には何人もの有能な
職人がいたようです。
 
1592年と1596年の二度にわたる朝鮮出兵には、20万人の日本人が動員され
ています。
当時の日本の人口は約1300万人。そのうちの20万人。手柄を立てて身分上昇を
願う男どもがドッと朝鮮になだれこんだのですから、大変なことです。
20万人というのは、いまなら200万。途方もない数字ですが、秀吉の死によって
全軍撤退となり、その後、朝鮮との国交修復に努力したのが徳川家康。さすがです。

   『石垣に恵まれた日本』

万里の長城。とにかく長い。しかし純粋なる石積みの部分は意外と少なく、ヤナギや
アシを束ねたものと粘土とを交互に積み重ねた土壁に近いものが多いとか。
あるいは土築き、あるいは煉瓦で、万里の長城は『万里の石垣』ではありません。
石積み擁壁は、石に恵まれていないと出来ません。
日本は、なぜか石がゴロゴロしていて、それを古代より有効活用してきました。
必要な場所に石を重ね、組み合わせることによって、生活の防衛を図り、利便性を追
求し、安定した生活空間を作ってきました。
はるか南方に石垣島がありますが、海に囲まれているので、防波堤としてたくさんの
石垣を造営したのでしょうか?

さて、熊本城の『奇跡の一本石垣』ですが、一本の石組みだけで支えられている『飯
田丸五階櫓』、この飯田は、前述した『飯田覚兵衛』が由来と思われます。
工事の進捗状況はわかりませんが、日本の誇る名城のひとつ、キチンと復興すること
を願ってやみません。


参考図書 『ものと人間の文化史・石垣』 田淵実夫著 法政大学出版局
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