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Vol.100 掌編小説 「心づくし」

J・H のささやき VOL.100  掌編小説 「心づくし」
明男は走る自転車の荷台に乗っていた。
少し冷たい風が頬をなでてくるが、なんだかとっても気持ちがいい。
 床屋のおにいさんが、暗くなったから、家まで送ってやると言ってくれたおかげで、
明男は自転車に乗っていた。サドル下の、クッション用のスプリングに両の指を軽く
そえて。
「ありがとうございました」という声を背中に受けながら、引き戸をガタガタと開けて、
さっぱりとした頭で床屋から出ると、あたりはすっかり暗くなっていた。
明男が十メートルほど歩を進めると、まもなく、背後から、坊や、家はどこだいと声を
かけられた。振り返ると、頭を刈ってくれたイガグリ頭の、浅黒い顔のおにいさんが駆
け寄ってきた。笑顔を浮かべている。
「坊や、ええと、青木君だったね、家はどこだい?」とまたきかれた。
明男は、なぜそんなことをきくんだろうと思いながら説明した。
「ああ、わかった、あの修道院の先の、千寿橋の手前だな。暗くなったから、自転車で
送ってやるよ。乗っていきなよ。わけねえから。一キロちょっとだな」
思いがけない優しい言葉に明男は驚き、とまどったが、ことわる言葉が見つからなくて、
だまって受けいれた。
やがて、ひどく大切にされているような気持ちがしてきて、嬉しさで心が躍るのをおぼ
えた。田口理髪店は、K駅に向かう大通りの坂の下にあった。
 八歳の明男は月に一度、母からお金をもらって、そこで頭を刈ってもらう。いままで
も、頭を刈ってもらって外に出たら暗くなっていた、ということは何度もあったが、こ
んなに親切で優しい言葉をかけられたことはなかった。暗くなったから家まで送ってく
れる! 
暗いと言ってもこの時間なら人の往来もあり、ポツリポツリとある街灯も蛍のように光
っている。
こわいことも危ないこともない。いつもひとりで、あるいは友達と歩いている慣れた道
だった。だから明男はほんとに嬉しかった。
自転車の荷台と言えば、銭湯に行く時に父の自転車の後ろに乗るぐらいで、他人に乗せ
てもらうのは初めてだった。なんだか自転車以外の、とても素敵な乗り物に乗っている
ような快さだ。それに、夜道をこんな速さで通過していると、違う道を進んでいるよう
な、不思議に愉快な気持ちにも誘われる。
 のぼり坂に差しかかって、ふと空を見あげた。いくつもの星がチカチカと光っている。
明男はうきうきとした気分で、金のボタンが夜空にばらまかれている、誰がやっている
んだろうと思った。
銭湯の帰り道、老いた父の漕ぐ自転車は牛のようにのろのろと走った。そしてのぼり坂
に差しかかると、父はかならず明男に荷台から降りるように言った。
父は何度か挑戦はしてみたものの、歳の割にはからだの大きな明男を乗せたまま、この
坂を登りきることはどうしても出来なかった。
「きつい、駄目だ、明男、降りろ」と父は苦しげな声で、吐くように言う。
それで明男が、ここでいったん降りたほうがいいと思って、あの、と声を出しかけた時、
そんな明男の心を読んだように、おにいさんは力強く言った。
「坊や、おりなくても大丈夫だから、こんな坂」
「はい」
「それ、それ」とおにいさんは声を張りあげ、腰を高くあげてペダルをこいでずんずん
前進した。すごいなあと明男は感心したが、おにいさんが息を荒くしていることはわか
った。
それでも父とは段違いだった。
「よしっ、なんのなんの」とまた声をあげた。
そして、長い坂をなんなくのぼり切ったので、明男は前のめりにしていた上体を起こした。
ここまで来れば、もう家は眼の前だった。
「ありがとございました。もうここで」
「ええ、もういいのかい?」とちらっと振り返って明男を見た。
そう言ったおにいさんは、息をゼイゼイさせ、肩を大きく上下させている。
「青木君重いねえ、おとなになったら、相撲取りになるといいよ、ハハハっ」
明男はクスっと笑いながら、少しすまない気持ちになった。
「……はい、ほんとに」
「遠慮しなくていいよ。じゃあ、あの修道院のちょっと先まで」
「はい」
明男は、おにいさんのような年齢のひとと話すのは初めてだったので、いくらか緊張して
いた。自転車はゆるゆると進んで、鬱蒼とした樹木に覆われた修道院を越えた。
明男にとって、修道院は不気味な、得体の知れない場所だった。
全身を黒い布でスッポリと包んだ修道女が、無言でぞろぞろと歩いているのを目にするた
びに、明男は、あのひとたちは、悪いひとなんだろうかと思ったりした。
「じゃあ、ここらでいいかな」と自転車はとまった。
「はい、ほんとに、ありがとうございました」
明男は荷台から降りた。白衣を着たおにいさんがとてもまぶしく見える。
「おやすいご用だよ。毎月来てくれるお客さんだからね」
おにいさんはニッコリ笑うと自転車の向きを変え、さて、と声を出してペダルを漕ぎはじ
めた。
上着の白い背中がどんどん小さくなって、その先に滝でもあるかのように、それはあっと
言う間に坂の下に飲み込まれた。ほんとに一瞬だった。
明男は大通りを少し進んでから、八百屋の手前を左に折れて、家がゴチャゴチャと建て込
んでいる路地に入った。ラジオの音や赤ん坊の泣き声が降るように耳に入ってきた。
母の待つアパートに向かう。
なぜ、あんなに親切にしてくれたんだろう、と考えた時、ふと店の鏡に映った、田口君の
ふっくらとした顔が浮かんできた。
その床屋は、椅子がいくつもある大きな店で、待たされることもたまにあったが、明男が
入った時、客はいなかった。そのせいか、普段よりもよりさらに広く感じられる店内で、
明男はいつものように、髪を切ってもらう間、目をつぶり、鋏のチョキチョキという音を
きくともなしに聞いていた。
と、不意におにいさんが、おっと小さな声をあげたので、明男は思わず目を開けた。
正面の大きな鏡の右側に、かつて同じ組だった田口君の顔が映っていた。職人の出入り口
になっている、ガラス格子の引戸を開けて、田口君が顔を突き出している。
「ミツル坊ちゃん、どうした?」とおにいさんが一瞬手を休めて振り返って声をあげた。
田口君は無言で少しうなずいただけだった。
田口君は眼鏡の奥の瞳を光らせてあれっという表情で明男を見ている。明男も驚いた。
にっと笑ってこたえると、田口君もニコニコして、しばらく明男をながめていたが、やが
て、はにかんだように目を伏せると、そっと戸を閉めてしまった。
田口君が床屋の子だったとは知らなかったので、明男はしばらく驚いたまま、腰かけてい
た。
組の中には、親が商売をしている家庭の子が多かった。炭屋、果物屋、魚屋、パン屋、肉
屋、花屋など。   
田口君は、みんなとは少し違う子だった。それでいつも誰彼ともなく田口君をからかった
り、馬鹿にしていたりした。
ある日、教室の片隅で、田口君がニ、三人の生徒に小突かれているのを眼にしたことがあ
った。
生徒たちは口々に何か言いながら、身をすくめるだけの無抵抗の田口君をなぶっていた。
哀しげな田口君の髪を引っ張り、肩や胸を突き、軽く叩いたりしている。
はじめて目にする、イヤな光景だった。
怒りをおぼえた明男はとっさに割って入って、やめろよと声をあげた。
組で一番からだの大きな明男が唸るようにそう言うと、みんなは逃げるように散った。
田口君はそれから間もなく、同じような生徒が集まる特別な組に入ったので、もう学校で
顔を合わせることはなくなっていた。
だから明男は田口君のことはすっかり忘れていた。
と、明男がドライヤーで頭を乾かしてもらっている時、田口君がまた顔をのぞかせた。
オズオズとしながらも、笑いを含んだ顔で明男をみつめている。
「ミツル坊ちゃんの友達かい?」と今度は手を休めないで、おにいさんが鏡の奥の田口君
に呼びかけた。田口君はそうだよとささやくと、しばらく間を置いてから、今度は青木君
だよと大声をあげた。そして何度も大きくうなずいて頬を赤らめた。
「そうか、ミツル坊ちゃんと青木君は友達なんだ」
おにいさんが嬉しそうに言った。
明男はくすぐったい気持ちになって、頬がどんどん熱くなるのをおぼえた。
アパートの前に立った時、明男はようやく、ある思いに突き当たった。
田口君は、あの時の小さな出来事をおぼえていて、それをあの髪を切ってくれたおにいさ
んに伝えたんだ。それで、おにいさんは、ぼくに、あんなによくしてくれたんだ。
きっとそうだ。その刹那、心の底に虹がいくつも架かった。
明男はいままで味わったことのない奇妙な感動に全身を貫かれた。そしてその思いは、お
菓子をどっさりともらったような大きな喜びに変わった。
田口君、ありがとう。そう思いながら、明男は、おかあちゃんに、早くこのこと言わなく
ちゃと思った。
頭上では、まん丸の月がまぶしいほどの光を放っていた。
                                完