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Vol.98 福沢諭吉について(13)

J・H のささやき VOL.98 『福沢諭吉について(13)』
~ 「学問のすすめ」より ~
第十一編は『名分を以て偽君子を生ずるの論』』です。
(今回はナイル川より長いので、途中でおやめになっても、かまいませんので)
名分を重んじるばかりに、ニセの君子が生まれるから、名分などは撤廃してしまえと
いう趣旨の論です。
換言すると、動かない水は濁る、ということです。
この名分ですが、現代ではほとんど死語だと思います。
曖昧な言葉ですね。
この名分、一応の解釈は、
『身分に応じておのおのが、上や下の者に対して守るべき道徳上の本分』ですが、
さてさて、この『身分』という言葉の解釈がハナから難しい。
歴史の書物には、
『身分とは、生まれながらに決まっているそのひとの社会的地位で、どのような家に
生まれたかということや、生まれた順序によって規定された。
人々の意識も基本的にそれによって貫かれていた。
身分はあらゆる階層に差別を生み出していた』
現在なら、ふざけるなと、誰もが思いますが、明治になっても、こんな間違った考え
がまだ流通していました。
身分を和英辞典で調べてみると、ポジション、ステータスとあります。
ポジション、ステータスを英和辞典で調べてみると、身分、地位、境遇、とあります。
これは解釈が容易ならざる言葉です。
クラス、つまり階級とも、どこか違う。多分、独特のイヤな日本語だと思います。
『身分に応じた守るべき道徳上の本分』ふむ、厄介ですね。
……身分を規定している大元は、職種でしょうか?
とすると、職種、身分、名分という三層になっているのか?
話がそれますが、渋沢栄一(1940~1932)の『青淵回顧録(せいえんかいこ
ろく)』にはこうあります。
渋沢家は埼玉県深谷の豪農で、ある日、栄一は領主の陣屋に呼ばれ、五百両出せと無
心をされます。
17歳の栄一は、即答はできないので、帰宅して父に相談するとこたえます。
すると、代官は実に高圧的な言葉で栄一をなじります。
栄一はその時の思いを次のようにのこしています。
『年齢が若かろうが、身分が低かろうが、頼む方と頼まれる方との関係であってみれば、
当然相当の取り扱いをするのが道理であるべき筈であるのに、殆んど奴隷扱いに等しい
実際の待遇を受けて、私は心中憤懣に堪えなかった』
若き栄一はこの体験を機に、幕府打倒を目指すのですが(後年、逆に幕府・明治政府に
仕えることになり、その後官を辞して実業の世界に身を投じます)ここで使われている
身分をヒントに、愚生は以下のように考えました。
 
身分とは、時の為政者にとって都合の良い抑圧体制を維持するための言葉でした。
農民は、親が農民なら農民のままおれ、職人なら職人のままおれ、商人なら商人のまま
おれ、武士なら武士のままおれ。
支配者側にとって、人間の立っている場所が固定されていた方が管理しやすいし、自分
たちの立場が守られるからです。世襲制の強制です。
つまり、生まれた場所、地位に押し付ける、その場に閉じ込める。
さらに、不条理なことがあっても、甘んじろ、と。
不条理と思うことすら禁圧されていた。
支配者階級とされた武士でも同じで、だから、坂本龍馬のように、強引に脱藩するしか
なかったわけです。龍馬は下級武士、土佐藩の正規の武士とは認められていなかった郷
士でしたから、自分の身分にこだわっていたら何もできないと思い定めたのでしょう。
不自由さの中に自由さを見出す、という考え方もありますが、激動の時代、そんな悠長
なことは言ってられない、身分は手かせ足かせでしかないという思いだったのです。
  
さて、この十一編で福沢は、名分を『名分の本は悪念より生じたるに非ず、想像に由り
て強いて造りたるものなり』と言っています。
名分は想像(幻想)から生まれたものであるが、悪意から生まれたものではないと定義
しながらも、しかし、
『その毒の吹き出す所は、人間(じんかん)に流行する欺詐術策の容体なり。
この病にかかる者を偽君子と名付く』
つまり、旧来の名分というつまらんことに人間がこだわっていたら、君子面した人間が
出てくるばかりだと述べています。
 
近年、江戸時代の研究が盛んになっていて、実は江戸時代は、あらゆる文化が爛熟して
社会は活性化し、庶民にも経済的な余裕が現れはじめていた、という見方が強まってい
ます。
つまり、さほど暗い時代ではなかった、民主的な側面もあったという見方です。
正解だと思います。しかし幕末に日本を訪れたある外国人は、こう記しています。
『この国は、停滞を安定と勘違いしている』と。
つまり、流動し活性化しているのは庶民文化という表層で、支配・被支配という根の部
分は旧態依然としている、それは停滞だ、という洞察でしょうか?
 
明治になって、身分制の撤廃とは言え、一気に変わるわけはなく、当時はいまだ従来の
武士、農民、職人、商人という階級意識が温存されていました。
福沢はそれを覆すべく、この論を書いたのでしょう。
『畢竟(ひっきょう・つまるところ)、この偽君子の多きもその本を尋ねれば古人の
妄想にて、世の人民をば皆結構人(お人好し)にして御し易きものと思込み、その弊遂
に専制抑圧に至り、詰る所は飼犬に手を噛まるるものなり。
返すがえすも世の中に頼みなきものは名分なり、毒を流すの大なるものは専制抑圧なり、
恐るべきに非ずや』
ここで面白いと思うのは、『人民』という言葉が使われていることです。
現在、この『人民』は、北朝鮮、中国で使われていますが、日本ではとうに死語です。
かつては『人民と共に』なんぞと使われていましたが、今では姿を消しています。
現在の日本では、国民、庶民、大衆、市民が使われていますね。
  
さて、では、名分に代わるものとして、社会をより良き方向に導くには、どんな言葉、
概念が適正であると福沢は考えていたのか? 『職分』です。
『名分とは虚飾の名目を云うなり。虚名とあれば上下貴賎、悉皆(しっかい)無用の
ものなれども、この(虚飾の名分と実の職分とを入れ替え)にして職分をさえ守れば
この名分も差支えあることなし。
即ち政府は一国の帳場にして人民を支配するの職分あり。
人民は一国の金主にして国用(国の費用)を給するの職分あり。
文官の職分は政法を議定するにあり、
武官の職分は命ずる所に赴いて戦うにあり。
この外(ほか)学者にも町人にもおのおの定めたる職分あらざるはなし。
(中略)名分と職分は文字こそ相似たれ、その趣意は全く別物なり。
学者これを誤り認ることなかれ』、 
 
福沢は、維新の鴻業を成しとげた多くの英傑と同じように、当時の身分制社会に強い
憤りを持っていたので、それを支えている『名分』という言葉に狙いを定めて、これ
を撃破しようと思ったのではないでしょうか?
それによって、社会は変化、流動化し、つまりは人間の交流が盛んになり国家は栄え
ると。
名分の持つ虚妄製を暴き、新しい社会には、『職分』こそが大事であると言明してい
る。
  
しかし、どうでしょうか?
明治創業から早や150年、職分という言葉も、現代では死語では?
現在は、役割、職務、職責、これが最も流通しているのではないでしょうか?
 
困った時は外国語に頼るのがいいですね。
ポジションで行きましょう。
野球に例えれば、巨人の松井のポジションは外野手で川合のそれは内野手でした。
『役割』が違うのでどっちが大変で偉いかのランク付けは不可能。
ここから、職業(職種)に貴賎なし、という考えが導かれるのでは?
 
人間は、それぞれのポジションに相応しい生き方をするのが素晴らしいと思うのです
が、しかしそのポジションは、生まれながらのものではなく、自らが選択したもので
あるのが望ましく、さらにそのポジションはいつでも変換可能、決して固定されたも
のではない、というのが担保されている。
つまり他のポジションにも道は開かれている、というのが理想か?
とは言うものの、日本人はだいたい、『この道一筋』が好きですが。
 
(あの相撲の行司とか呼び出しとか、整髪師の床山とか、水の入った桶を持ってくる
ひととか、あれらは世襲制なのか、門戸は開放されているのか、昔から気になってい
ます)
最後に『職業に貴賎なし』を補足する愚生の考えを開陳します。
職業はすべて役割別に横並びで存在している、と定めます。縦並びではない。
従って、1万も2万もある職種に貴賎の高低は付けられないのです。
大工、植木職人、官僚、弁護士、寿司職人、医師、陶工、様々な仕事がありますが職
種が違うので、比較は不可能なのです。ここが肝腎なところです。
 
テニスの選手とスキーの選手、どっちが凄いとか比較できますか?
パン職人と靴職人、どっちが高級か、比較出来ませんよね。
ただ、職種というひとつのシステム(系)において、高級と低級の格差はあります。
つまり、一流の寿司職人と三流の寿司職人、一流の医師と三流の医師がいるように。
しかし、一流の寿司職人と一流の医師の比較は、分野が違うゆえに不可能なのです。
比較自体が誤謬で無意味なのです。
誰もがこの点に気付けば、奇妙な職業差別とそれに基づく階級意識も消滅すると思う
のですが、いかがでしょうか?
しかし、一流の仕事人は『貴』に分類して賞讃すべきでは?
 
『おれの仕事は高級だ』、あるいは『おれの仕事は低級だ』、いずれも思い込みです。
そのように思うのではなく、『おれはこの仕事において一流かな』、『おれはこの仕
事において三流だな』、というのは、よろしいのでは。
ほかの職種との比較ではなく、己れが属している職種の中で、己れはどの地位にいる
のか、という高低の判断からくる誇りと謙虚さの表れだからです。
  
とまあ、自分でも混乱しながら、論理的ではない面倒臭い事を書いてきましたが、身
分、職分、ポジション、階級、いろんなことを考えさせられる第十一編でした。
読者諸兄は、『一流の職分』を尽くしておられると信じておりますゾ。